前400年頃~50年頃
出雲神話と日向神話で描かれる時代。弥生時代前期と中期にあたります
| 前400年頃 |
大陸との交易拠点として出雲が栄え始める言うなればこの時期は、神話以前のイズモ |
| 〃 |
青銅器が西日本全体で重宝されるこの頃はまだ金属製品として利用(農業道具や楽器)されていた |
| 〃 |
この頃には既に、日向(天照)の権威は西日本の共通認識だった過去の大災害から真っ先に復興した事実が、人々の尊敬を集めていた |
| 前221年 |
秦による中国統一で、日本に多数の難民が移住してくるこの時、鉄器も大量に日本列島に流入することに |
| 前3世紀後半 |
九州北部の奴国が繫栄し始める大陸由来の墓制も持ち込まれていた |
| 前210年頃 |
徐福が日本に来航全国に伝承が残るが、特に富士山近辺では伝承が多い |
| 前208年 |
秦が滅び、前漢が建国される[中国での出来事]この影響で朝鮮半島に難民が多数流れ込み、公益相手の出雲も影響を受けることに |
| 〃 |
出雲周辺の丘陵地に集落が作られ始めるこの時に神社に通じる木造建築も発展 |
| 前130年頃? |
紀伊国で、スサノオが生まれる暴論かもしれませんが、有田市の須佐神社の存在から考察しました |
| 前110年頃? |
スサノオが製鉄技術を学びに朝鮮の辰韓(新羅)へ当時の朝鮮半島は製鉄が盛んだったので、留学に近い? |
| 前108年 |
漢が、朝鮮半島北部に楽浪郡を設置する(朝鮮での出来事)かつてその地を治めていた衛氏朝鮮が漢に滅ぼされ、朝鮮半島は混乱に |
| 〃 |
スサノオが製鉄技術を手に出雲へ息子と共に、当時の日本の中心地・出雲へ上陸 |
| 〃 |
スサノオのヤマタノオロチ退治実際は、斐伊川の治水工事と製鉄技術の普及事業 |
| 前105年頃 |
スサノオの息子が紀伊国に帰還製鉄技術と林業技術を伝え、和歌山を統治し始める |
| 前100年頃 |
中国山地の奥地で、独特な形の墓が作られ始める弥生時代の出雲で多く見られる、四隅突出型墳丘墓が成立 |
| 0年頃 |
スサノオから始まる出雲王国の5代目による、国引き神話実際は、朝鮮や高志(北陸)から移住した人々を服従させた |
| 〃 |
出雲と日向での、誓約神話実際は、出雲国と日向国の政略結婚 |
| 0年代 |
西日本で皆既日食が多発日向で、天岩戸と伝えられる太陽復活祭が行われた |
| 8年以降 |
日向三代神話実際は、日向国による南九州統一事業 |
| 20年頃 |
出雲王国の6代目による高志(北陸)遠征出雲国王が、現在の福井県北部に当たる越前を平定 |
| 25年 |
後漢が建国される[中国での出来事]混乱を招いた新王朝が滅び、強大な帝国が東アジアに君臨し始める |
| 20年代後半 |
因幡の白兎神話実際は、出雲王子・オオナムジによる争いの仲介 |
| 〃 |
ワニと呼ばれた一族の国・近江出雲と繋がり、商人として大成功を収めた近江の一族 |
| 〃 |
オオクニヌシ神話実際は、出雲王国での後継者争いと、オオナムジが紀伊・熊野のバックアップを手中に収めた出来事 |
| 30年頃 |
オオクニヌシによる高志(北陸)遠征出雲王国の影響力は越後(新潟)まで及ぶことに |
| 〃 |
オオクニヌシによる播磨遠征播磨にはオオクニヌシの足跡が今でも多数残っています |
| 〃 |
オオクニヌシによる宗像・安芸遠征大陸との交易を生業としていた宗像氏のルーツがここに |
| 30年代 |
国造り神話実際は、オオクニヌシと、日向国から派遣された専門家と協力しての国土開拓 |
| 30年代後半 |
出雲王国による大和開拓日本最古の神社である大神神社の創始 |
| 〃 |
辰韓(新羅)から王子が来日する王子は大国主の依頼で、出雲と大和を結ぶ主要路の要衝・旦波を統治し始める |
| 42年 |
伽耶が成立する(朝鮮での出来事)日本列島の豪族による前線基地として機能した |
| 42年頃 |
日向王国から出雲にスパイが送り込まれる神話で描かれるアメノホヒの出雲王国潜入 |
| 45年頃 |
日向王国から出雲に2人目のスパイが送り込まれる神話で描かれるアメノワカヒコの出雲王国潜入 |
| 50年頃 |
国譲り神話実際は、出雲王国から日向王国への統治システムの譲渡 |
| 〃 |
出雲王国の国じまい出雲大社の創建など |
50年頃~150年頃
神武天皇が即位したとされる橿原が栄えた時代。弥生時代後期前半にあたります
| 50年代中頃 |
神武天皇が日向から出港し、大和を目指す道中立ち寄った場所も、後世に大きな意味を持つ場所ばかり |
| 〃 |
大阪湾から大和を目指すも、在地勢力に敗れるこの争いで神武天皇の兄が亡くなる |
| 〃 |
熊野からの南回りで大和を目指すヤタガラス伝説はこの時の話 |
| 〃 |
大和平定在地勢力を倒し、周辺の勢力も平定 |
| 50年代後半 |
神武天皇が橿原で天皇として即位都があった場所は橿原神宮 |
| 〃 |
東征に従った家臣たちの独立東征を頑張った褒美は、国1つ! |
| 〃 |
在地豪族の扱いは、まるで外様大名?時代は違えども、かつての敵は簡単に味方に引き入れられない |
| 〃 |
近江は遠江・信濃への物流街道古代に存在した東海道と中山道ってか? |
| 〃 |
この頃から始まった関東と近畿の交流日本有数の古社・鹿島神宮が繋いだ海の道 |
| 〃 |
もう一つの日本、日高見国の成立大和を追われた出雲の人々が逃げたのは東北地方 |
| 57年 |
九州北部・奴国の王が後漢に朝貢神武天皇の大和よりも強大な相手との交流を進めていた |
| 〃 |
支配者が変わった出雲オオクニヌシが退き、天皇家ゆかりの人物が支配するも、文化は途切れず |
| 1世紀後半 |
登呂遺跡の最盛期神武天皇の大和とは全く別の文化圏を築いてた王国の跡 |
| 90年代後半 |
神武天皇の崩御4人の皇子による後継者争いが始まってしまう |
| 107年 |
吉野ヶ里遺跡の王が後漢に朝貢吉野ヶ里遺跡の当時の呼び名は面土(米多)国で、独立した王国でした |
| 2世紀前半 |
吉備での勢力が急速に力を伸ばし始める王は温羅一族。大陸由来の製鉄や焼き物の技術で、当時最先端の工業地帯に |
| 〃 |
出雲が吉備と同盟を結ぶ人口の多い出雲と、技術の吉備の同盟は、天皇家の大和に衝撃を与えたはず |
150年頃~200年頃
『魏志倭人伝』などに登場する大乱の時代。弥生時代後期後半にあたります
| 150年頃 |
倭国大乱がはじまる天皇家は吉備の温羅一族と争いになり、大和を追われる |
| 〃 |
天皇家は橿原から逃げる形で、九州へ天皇家は九州の筑後盆地(現在の平塚川添遺跡)で温羅一族との争いを続ける |
| 150年代 |
出雲で四隅突出型墳丘墓が大型化吉備氏と同盟を組んだことで、出雲は再び繫栄 |
| 150年代 |
武蔵国に出雲族が移住出雲を流れる斐伊川から、移住先は氷川と呼ばれるように |
| 160年代? |
吉備と大和(実際は九州)との争いが激化皇女・モモソ姫は讃岐に身を寄せることになる |
| 170年代? |
この頃に、富士山が噴火?この影響で東日本の国々は倭国大乱どころではなかった |
| 184年 |
黄巾の乱[中国での出来事]この反乱により後漢が急激に衰退し、大陸でも内乱に突入する |
| 186年頃? |
モモソ姫が祭祀王としての日巫女に就任これによって、周辺の国々も大和に味方し始めた |
| 187年頃? |
モモソ姫の弟・吉備津彦が播磨平定に乗り出す吉備周辺の国を従える目的そして無事平定 |
| 187年頃? |
因幡で激しい戦闘が行われる吉備と同盟関係だった出雲も次第に追い詰められていく |
| 188年頃 |
吉備津彦が吉備の豪族たちを従えていくまともに戦うのではなく、寝返りを図った |
| 189年頃 |
温羅一族が滅び、倭国大乱が集結天皇家側の勝利となった |
| 2世紀末 |
出雲の住民の一部が高志へ移住大和に従うことを拒否した人々は、船で移住を図った |
| 〃 |
東海地方で前方後方墳丘墓が広がり始める富士山噴火からの復興を経て、大和との対決姿勢を前面に |
200年頃~370年頃
纏向遺跡が栄え、『魏志倭人伝』にも記された時代。時代弥生時代末期と古墳時代前期にあたります
| 200年頃 |
天皇家は九州から大和へ遷都し、纏向に都が置かれる時の天皇は、第10代・崇神天皇 |
| 〃 |
山城(京都)に加茂御祖神社(下鴨神社)が創建されるこれを機に、山城国は鴨氏の領地となった |
| 〃 |
近江(滋賀)に日吉大社が創建される近江・若狭との物流を支えた一族の足跡が残る |
| 203年頃 |
疫病が流行これを機に、宮中で祀られていた天照大御神は外で祀られるように |
| 3世紀前半 |
北陸で四隅突出型墳丘墓が築かれるようになる出雲から逃れた残党が北陸で再起を図っていた |
| 208年 |
赤壁の戦い[中国での出来事]この戦いにより三国時代の領土がほぼ確定する |
| 220年 |
後漢の滅亡[中国での出来事]魏・呉・蜀の三国時代が幕を開ける |
| 230年頃 |
魏との同盟を検討し始める?大陸での情勢や、国内での敵対関係も踏まえての行動 |
| 235年頃 |
旦波(丹波・但馬)に将軍が派遣される日本海ルートの安定を図るために制圧。元伊勢が置かれたのは、この時期 |
| 239年 |
モモソ姫が魏に使いを送るこの頃には、大和国の傘下は21国! |
| 245年ごろ |
北関東に毛野国が成立する第10代崇神天皇の息子・トヨスキイリヒコが毛野氏始祖として、毛野国(栃木・群馬)に入国 |
| 247年頃 |
大和国と狗奴(久努/くぬ)国で戦争になるようは、纏向遺跡 vs 登呂遺跡 |
| 247年 |
モモソ姫が亡くなる各地で混乱が発生 |
| 〃 |
トヨが日巫女に就任13歳の人生を振り返ると… |
| 〃 |
北陸と東海に将軍が派遣されるとくに混乱が大きかった二つの地域の平定が図られる |
| 250年頃 |
出雲に将軍が派遣される本格的な出雲征伐が行われる |
| 〃 |
倭国大乱時代の将軍たちが亡くなる播磨と吉備に、大規模古墳が築かれる |
| 255年頃 |
第10代崇神天皇が崩御し、息子である第11代垂仁天皇が即位垂仁天皇も各地に神社を創建代表的なのは熊野本宮大社と富士山本宮浅間大社 |
| 260年頃 |
熊野国に、熊野本宮大社が創建されるこの頃、紀伊国でも出雲と大和に関する大きな動きが |
| 260年代後半 |
各地を点々としていた天照大御神が、ようやく伊勢に鎮座する大和から丹波、紀伊、伊賀、美濃、尾張の長旅をようやく終える |
| 265年 |
西晋が成立する[中国での出来事]魏の将軍が乗っ取る形で建国された |
| 266年 |
倭の女王(台与)が西晋に朝貢考古学では、これ以降が「空白の4世紀」 |
| 270年頃 |
纏向の大型古墳最盛期纏向で築かれた古墳群は、大阪の古墳に引けをとらないものばかり |
| 3世紀後半 |
人型埴輪の誕生殉死の習慣を無くすために、ある人物が人型埴輪を代わりに埋めるよう提案 |
| 280年 |
三国時代の終結[中国での出来事]西晋が呉を滅ぼし、中国が約100年ぶりに統一される |
| 291年 |
八王の乱[中国での出来事]この反乱を契機に、多くの難民が九州に入ってきた |
| 4世紀初頭 |
第11代垂仁天皇が崩御し、息子の第12代景行天皇が即位景行天皇は最初に、九州の平定を推し進めた |
| 306年 |
西晋の滅亡[中国での出来事]以来中国は300年間の五胡十六国時代(南北朝時代)に突入する |
| 313年 |
楽浪郡が高句麗に滅ぼされる[朝鮮での出来事]朝鮮半島では中国の影響力が著しく低下 |
| 313年頃 |
百済が建国される[朝鮮での出来事]もう少し前の建国かもしれないが、この時期に国家として成立した |
| 310年代 |
第12代景行天皇の息子・オウスが熊襲平定へ熊襲を平定したオウスは、ヤマトタケルを名乗り始める |
| 320年代 |
ヤマトタケルが東国平定へ焼津や日本平や富士山に残る英雄の足跡 |
| 320年代中頃 |
ヤマトタケルが大和へ戻る前に死去白鳥伝説と、熱田神宮の始まり |
| 330年ごろ |
第12代景行天皇が纏向から近江に遷都政治の中心は近江に、それ以外の中心は大和という体制になった |
| 340年ごろ |
第13代成務天皇が地方行政区分の確立支配下に国造などを設置し、支配体制が整備された |
| 〃 |
出雲での古墳築造の本格化作られていたのは前方後円墳ではなく、方墳が多かった |
| 350年ごろ |
第13代成務天皇が崩御天皇陵が築かれたのは近江から纏向への街道沿いに位置する佐紀エリア |
| 350年中ごろ |
第14代仲哀天皇が敦賀に仮の皇居を設け、次は紀伊に仮の皇居を設ける天皇自らによる各地の視察と監視が目的 |
| 〃 |
朝鮮のバックアップで強大になった熊襲の反乱紀伊に居た第14代仲哀天皇は、熊襲攻めの前線基地となる筑紫(福岡)へ |
| 356年 |
新羅が建国される[朝鮮での出来事]出雲時代以来、辰韓と呼ばれたエリアを統一したのが新羅 |
| 360年頃 |
神功皇后の三韓征伐実際は、朝鮮と熊襲との関係断絶や鉄資源確保を目的とした侵略 |
| 〃 |
宗像・沖ノ島での祭祀が始まる国家による航海安全を祈る儀式が行われるようになる |
| 360年過ぎ |
日本に残っていた皇族による反乱神功皇后の帰還を阻むように各地に要塞を築く |
| 〃 |
住吉大社の創建神功皇后軍による安全祈願を機に創建される |
| 〃 |
神功皇后、紀伊国で反乱制圧準備神託を聞き、軍勢を整え、反乱平定へ |
| 〃 |
神功皇后、反乱制圧神功皇后は纏向のすぐ南、磐余若桜宮に遷都 |
| 4世紀後半 |
富雄丸山古墳に武人が埋葬され、蛇行剣とだ龍鏡なども埋められる恐らくは朝鮮に渡った将軍の墓 |
| 〃 |
日本海側最大の古墳が旦波に多数築かれる近畿と九州を結ぶ航路の最盛期だったことの証拠か |
| 〃 |
出雲地域で最大の古墳群が伯耆に築かれる古墳群を見れば、当時の交易路がわかる! |
| 367年 |
百済から七支刀が送られる石上神宮に祀られる宝剣は歴史の生き証人! |
370年頃~593年
難波を中心に大規模古墳が築かれた時代。古墳時代中期と後期にあたります
| 370年頃 |
百舌鳥・古市古墳群で最古の、津堂城山古墳が築かれるはじめて大阪に登場した大規模古墳で、時代の転換点としてのシンボル |
| 〃 |
神功皇后の息子・第15代応神天皇が即位全国の八幡宮で祀られる天皇の登場! |
| 390年頃 |
応神天皇が難波に初めて都を移す場所は、現在の大阪市の大隅神社 |
| 400年 |
倭国が高句麗の広開土王に敗北広開土王碑に書かれている内容はこの時期のもの |
| 410年頃 |
応神天皇が崩御し、国内で2番目の古墳に埋葬される二人の皇子が天皇の座を譲り合い、弟が即位せずに実務をこなすように |
| 421年 |
倭王・讃(1人目)が宋の武帝に使者を派遣倭王・讃の正体は、天皇にならずに実務をこなしていたワキイラツコ |
| 430年頃 |
ワキイラツコが亡くなり、兄の仁徳天皇が即位仁徳天皇は、正式に都を難波に遷都した |
| 438年 |
倭王・珍(2人目)が宋の文帝に使者を派遣倭王・珍の正体こそが、仁徳天皇! |
| 440年頃 |
仁徳天皇が崩御し、大仙陵古墳に埋葬される仁徳天皇の4人の皇子達による後継者争いが勃発 |
| 440年代 |
皇子達が順に天皇に即位上2人が短命だったので、末の天皇が長く在位についた |
| 451年 |
倭王・済(3人目)が宋に使者を送る倭王・讃の正体は、仁徳天皇の末っ子である允恭天皇 |
| 455年ごろ |
熾烈な後継者争いが再び勃発允恭天皇の死後、跡を継いだ安康天皇が暗殺され、血で血を洗う後継者争いに |
| 〃 |
ワカタケル大王こと雄略天皇が即位後継者争いを制し、都を桜井に移す |
| 462年 |
倭王・興(4人目)が宋に使者を送る倭王・興の正体は安康天皇だが、既に暗殺されているので外交目的で死を隠したか |
| 465年頃 |
吉備で反乱が起こる強権的な雄略天皇に反旗を翻すも鎮圧される |
| 471年 |
武蔵でワカタケル大王の名が刻まれた鉄剣が製造される武蔵国に朝鮮との戦争で武功があった将軍の埋葬品か |
| 470年代後半 |
伊勢神宮外宮が成立する旦波(丹波・但馬)で祀られていた神様が伊勢に移された |
| 478年 |
倭王・武(5人目)が宋に使者を派遣倭王・武の正体は明らかに雄略天皇 |
| 480年頃 |
雄略天皇が崩御天皇の死をきっかけに、吉備で再び反乱が起こるも鎮圧される |
| 480年代~506年 |
5人の天皇が次々と即位5人目に子どもがおらず、仁徳天皇の血筋が断絶 |
| 507年 |
天皇家の遠戚だった越前の豪族が、継体天皇として即位彼以降は確実な古代日本史とされています |
| 528年 |
筑紫磐井の乱新羅と手を結んだ磐井氏の反乱で、なんとか鎮圧される |
| 587年 |
丁未の乱厩戸王(聖徳太子)と蘇我氏が、物部氏を滅亡させる |
| 593年 |
推古天皇が飛鳥に遷都飛鳥は蘇我氏の本拠地だった |
年表ベースのサイトにリニューアルしました!
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「古代日本からのおくりもの」のホームページを開設しました!
「日本の古代史って興味あるけど、難しすぎるか陰謀論ばかり…」
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そう、古代史なんて難しいですから「にわか」でいいんです!
軽~い感じで見てみてください!
あと、作成者が関西人なので、関西弁が多々出てきますが、気にしないで下さいね
キラク
─ ニッポンクリエイター ─
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