強権的な天皇
ドロドロの後継者争いを制して即位した雄略天皇は、即位後も横暴な行動をとり続けます。 豪華すぎる地方豪族の館は焼き払うように命じたり、気に障るとすぐに臣下を処刑したりと、もうメチャクチャ。 そして朝鮮半島情勢にも軍事介入を行い、百済とは密接な関係を築く一方、新羅と高句麗には高圧的な態度をとり続けました。 また、中国とも積極的に交流を行い、使者を派遣したことも記されています。 ただ、雄略天皇とされる倭王・武のことを書いた中国の書物では、以下のような事が書かれています。
「倭王・武は中国から欲していた称号を得られなかったので、 朝貢関係を見直し、中国に依存しない外交を開始した」

この記述からも、かなり雄略天皇(倭王・武)はかなり強権的だったことが伺えます。
有力豪族の反乱
この体制に対して地方豪族は不満を募らせていきます。 そしてとうとう、吉備(岡山)の豪族・吉備氏が反乱を起こします。 吉備氏は7代天皇の皇子を先祖とする、皇室ゆかりの豪族でした。 纏向に都があったころからヤマト朝廷を支えてきましたが、 吉備氏のトップが朝鮮半島へ赴任中に、雄略天皇が吉備氏トップの妻を勝手に皇妃としたことで、 これ以上は付いて行けないと反乱に至ったのです。 ただ、雄略天皇の軍事力には敵わず、反乱は失敗し、吉備氏は没落へと向かっていきます。
これらの出来事、かなりメチャクチャですが、雄略天皇としては当時の有力豪族を次々と弱体化させ、 天皇の権力を高めようとしたようです。手段としては疑問が残りますが。 結果的に、地方豪族の影響力は小さくなり、天皇の地位は大いに向上することになりました。
~神話紀行~
岡ミサンザイ古墳
雄略天皇が眠るとする説が有力な陵墓です。全国で16番目の規模を誇る前方後円墳で、世界遺産に登録されています。 岡ミサンザイ古墳に関するページは こちら からどうぞ!
造山古墳
岡山県に存在する、日本で4番目に大きな前方後円墳です。 雄略天皇によって没落したものの、当時の日本では天皇家を除けば最も大きな古墳だということからも、 かなりの勢力だったことがわかります。 造山古墳に関するページは こちら からどうぞ!
