「倭の五王」のおさらい
「倭の五王」と言えば、日本史ではなんとなく覚えたけど、 なんかピンとこない5人衆という方も多いでしょう。
改めて倭の五王についておさらいすると、
中国(当時は南宋)に使者を派遣した5人の倭国王のことを指します。
彼らは東アジアでの国際的地位を確保するために、
倭国内の支配権と朝鮮半島南部での軍事権を中国の皇帝に認めさせようとしました。
その五人と言うのが、
讃・
珍・
済・
興・
武
です。
彼らが活躍したのは5世紀です。その時代は大阪の世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」が造られた時期でもあります。

中国に使者を派遣するほどの権力をもっていたことと、この時代の権力の象徴が前方後円墳という点からも、 倭の五王はこの時代に在位していた天皇(当時は大王)だと考えられています。
以上が、倭の五王に関するおさらいでーす。
家系図を見比べる
では、その倭の五王は、どの天皇にあたるのかを可能な限りで考えてみたいと思います。
まず、ほとんどの研究者は倭の五王の5人目・武は第21代・雄略天皇でほぼ間違いないと考えています。 その理由は以下の図で説明しています。 面倒だと思われた方は、5人目だけは確定しているとだけ把握していれば問題ありません!

要は、中国と日本の古書の双方に裏付ける記述があり、考古学的にも矛盾点が少ない点が、 「武=雄略天皇」だと証明しているという訳ですね。
「武=雄略天皇」はひとまず確定として、ここからは残り4人について考えていきます。 ではまず、中国の書物で書かれている倭の五王の家系図と、天皇家の家系図を見比べてみましょう!

中国の書物では、2人目・珍と3人目・済の関係性が書かれていないんです。 だからこそ現在でも5人目以外ははっきりとは否定できていないんですよね。
まあ恐らく3人目と4人目は家系図から第19代・允恭天皇と第20代・安康天皇でほぼ間違いないですよね~。 ただ、裏付けの証拠がないので断定できないのが歯がゆいところ。
ただ、調べてみると、日本側にも不足している情報がありました! 『古事記』『日本書紀』には、第16代・仁徳天皇が即位する前、 彼の弟と仁徳天皇とで、皇位を譲り合ったという記述があるんです。 しかも、父である第15代・応神天皇は後継者に、その弟を指名しているんです。 そんな彼は、『播磨国風土記』では、こう書かれています。 宇治天皇と。 『古事記』『日本書紀』では天皇と扱われていないですが、 当時は天皇として扱われていた可能性がありそうです。
このことを踏まえて、先ほどの家系図に情報を書き加えたいと思います。

なんか、あれですよね。家系図からだと比定できそうですよね。
年表を見比べる
では次に、中国側の年表と日本側の年表を比べてみたいと思います。
ただ、日本側の書物は国家的な年表改ざんがあるので、 『古事記』『日本書紀』での年代は用いるべきではないと考えました。 そこで代わりに、倭の五王が眠るとされる「百舌鳥・古市古墳群」の、 代表的な天皇陵が築かれた時期を書いていきたいと思います。
西暦年 | 中国側の記録 | 古墳が築かれた時期 |
---|---|---|
5世紀初頭 | 応神天皇陵が築かれ始める | |
421年 | 讃が宋に朝貢する | |
425年 | 讃が使者を遣わして、貢物を献ずる | |
438年 | この以前に讃が没し、弟の珍が即位する 珍が宋に朝貢する |
|
5世紀中期 | 仁徳天皇陵が築かれ始める | |
443年 | 済が宋に朝貢する | |
451年 | 済が宋の文帝から称号を賜る | |
462年 | この以前に済が没し、子である興が使者を派遣する | |
477年 | この以前に興が没し、弟の武が即位する 武が使者を派遣する |
|
5世紀後半 | 雄略天皇陵と考えられる岡ミサンザイ古墳が築かれ始める |
うーん、どうでしょうか。やはり古墳では断定するのは難しそうですよね。 埋葬された時期もあやふやですし。 そもそも古墳についても明治に場所が比定されているので、本当に正しいのかわからないんです。 かと言って、100歳以上の天皇がゴロゴロ書かれている 『古事記』『日本書紀』の記述をそのまま信じる訳にもいかないですし。
つまり、現在で判明している情報量では、倭の五王を特定の天皇に比定することは無理ゲーなんです! 中国での記述は少なく、日本での記述は年代がズレまくっていて、古墳の場所も比定できていないという状態です。
そう、実は卑弥呼以上に謎が多いのが「倭の五王」なんです。 天皇陵の調査も進んでいないですし~。
まとめ
このページでの内容をまとめると、
- 「倭の五王」の5人目・武は雄略天皇でほぼ確定している
- あとの4人については、中国での歴史書と『古事記』『日本書紀』と一致しない箇所が多く、断定できない
- 五王の候補と考えられる、宇治天皇と呼ばれた人が存在する
- ただ、『古事記』と『日本書紀』の年代はズレがあるので、中国の歴史書と照らし合わせることが容易ではない
- 倭の五王とされる天皇たちが眠る古墳も正しいか微妙で、調査も進んでいない
- 現在の情報量で倭の五王を比定することは無理ゲー
といった具合です。
空白の4世紀は朝鮮半島での勢力を図ったものの返り討ちにあったので、 この倭の五王たちは、中国からの後ろ盾を得て、 勢力拡大を図ったという訳です。 そんな軍事力を有していたからこそ、世界最大級の古墳群を作れたのでしょうね~。
しかし、倭の五王がそれぞれ誰なのか、わかる日は来るんでしょうか、、。