『古事記』と『日本書紀』 ヤマトタケル、東へ

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ヤマトタケル、気付く

纏向に帰ったヤマトタケルですが、父である景行天皇はすぐに東国平定を命じます。 ヤマトタケルはすぐに東へ向かい、伊勢神宮に立ち寄ることにします。 伊勢神宮で祭祀を行っているのが父の妹で、ヤマトタケルの叔母だったからです。 ヤマトタケルはそこで弱音を吐きます。我が父は私に死ねばいいと思っているのかと。 見かねた叔母は、スサノオがヤマタノオロチ退治で手に入れた宝剣・天叢雲剣あまのむらくものつるぎを授けました。 この宝剣があなたを守ってくれるという思いからでした。

図①

燃える野原と東国

宝剣を手に東国平定に乗り出したヤマトタケルですが、焼津の地で豪族にだまされ、野原で火攻めに遭います。 ヤマトタケルは宝剣を使って草を斬り、こちら側からも火をつけました。 すると火と火がぶつかって、勢いが収まり、窮地を脱しました。この逸話から宝剣は草薙劔くさなぎのつるぎと呼ばれるようになりました。 この焼津の豪族をはじめ、東国の豪族をヤマトタケルは次々と倒していきました。

図②

しかし道中、ヤマトタケルの妃が亡くなってしまいます。 箱根の北にある足柄峠まで来た時にヤマトタケルは妃への思いが込み上げ、「吾妻はや(我が妻よ)」と絶叫します。 その逸話から、この峠の東側は吾妻あづま(東)国と呼ばれるようになりました。

纏向へ帰りたい

東国平定がひと段落し、ヤマトタケル一行は尾張の熱田に入ります。 今度は伊吹山の神を倒すために出かけますが、素手で倒すと意気込んで、宝剣を熱田に置いていきました。 そして伊吹山の神であるイノシシに対面しますが、ザコと勘違いして無視すると、 神の怒りを買い、ヤマトタケルは雹のつぶてや呪いで衰弱してしまいます。 歩くのも困難になったものの、帰りたいという一心で纏向へ向かいますが、 峠を越えれば大和国という場所でヤマトタケルは亡くなってしまいます。 それを聞いた天皇の使者は、その場所に陵を造りますが、ヤマトタケルの魂は白鳥になって飛び立っていきました。

図③

その後、父である景行天皇はヤマトタケルの偉業をしのぶため東国巡行を行った後、 纏向から近江・志賀高穴穂宮(現在の大津市)に都を移します。 恐らくは東国支配を強めるためと思いますが、この遷都によって纏向は都ではなくなりました。

~神話紀行~

焼津神社

焼津神社

ヤマトタケルが野原に火を放たれた場所と伝わる焼津に鎮座する神社で、ヤマトタケルを祀っています。 焼津神社のホームページは こちら からどうぞ!

足柄峠

足柄峠

ヤマトタケルが亡くなった妃を悲しんだ場所で、この峠より東が東国あずまのくにと呼ばれました。 足柄峠に関するページは こちら からどうぞ!

熱田神宮

熱田神宮

ヤマトタケルが置いていった草薙剣をご神体とする神宮です。 熱田神宮のホームページは こちら からどうぞ!

日本武尊能褒野御墓

日本武尊やまとたけるのみこと能褒野御墓のぼのおんぼ

ヤマトタケルが亡くなった場所に建てられた陵と伝わる前方後円墳です。写真は隣接する能褒野神社です。 この古墳に関するページは こちら からどうぞ!

纏向遺跡

纏向遺跡

ヤマトタケルが帰りたがった纏向の都の遺跡です。 写真右側に見える古墳は、ヤマトタケルの父・景行天皇の陵墓です。 この写真の場所は こちら(Google Map) からどうぞ!

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